中島みゆき「あわせ鏡」の歌詞について考える
中島みゆき「あわせ鏡」の歌詞について考える
~魔法の鏡はコワレモノ?~
毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。
アラサーサラリーマンの私ですが仕事が辛いときにいつも聴いてる中島みゆきさんの歌について自分が感じたこと、考えたことをまとめてみようと思います。
今回は個人的にお気に入りの曲の一つ「あわせ鏡」をご紹介します。
※2021/2/14 破損していた画像を再投稿、文言を修正
中島みゆき「あわせ鏡」について
中島みゆきさんの「あわせ鏡」は1981年3月5日に発売された中島みゆきの8作目のアルバム『臨月』の収録曲です。2004年11月17日に発表された、32作目のオリジナルアルバム『いまのきもち』にも収録されています。
アルバム『臨月』は1981年の年間ヒットチャート第7位にランクイン。また、同年の第23回日本レコード大賞の'81アルバムベスト10に選ばれたそうです。
「あわせ鏡」の歌詞を考える
そんな「あわせ鏡」歌詞ですが、歌詞を読むと不思議な言い回しが目立ちます。
例えば歌いだしのこの歌詞。
グラスの中に自分の背中がふいに見える夜は
あわせ鏡を両手で砕く 夢が血を流す
あなたはグラスの中に自分の背中がふいに見えたことはありますか?
。。。私はありません。。。
もしグラスの中に自分の背中がふいに見えたことがある方はコメントください笑
このように曲の冒頭から比喩的表現が入るため、開始数秒で困惑することになります。
しかし、しっかりと歌詞を読んでいくと、曲中に歌われる「あたい」がどんな人物なのか、どんな状況にあるのかしっかりと描かれていることが分かります。
私がこの「あわせ鏡」をどのように読んだのか(正確には聞いたのかですが)以下綴っていきたいと思います。
※言わずもがなですが、以下は個人の感想でありますので、誤った解釈をしているかもしれませんが、ご容赦をいただければと思います。
※実はこの曲冒頭が一番難解なので、その次の歌詞から読んでいきたいと思います。
(なぜ難解かというとこの冒頭の歌詞がこの曲の結末だからなのです。)
なりたい夢となれる夢とが本当はちがうことくらい
わかってるから鏡みるとき芝居してるのよ
なりたい夢が理想ということならば、なれる夢というのは現実ということでしょうか。理想と現実が違うことが分かっているから、あたいは鏡の前で芝居をしてありのままではない嘘の自分を演じるのです。鏡に映るのは演技をしている自分、文字通り「虚像」が映ります。
つくり笑いとつくり言葉であたいドレスを飾るのよ
袖のほつれたシャツは嫌なの あたい似合うから
つくり言葉というのは「つくり言」のことで虚言のことです。相手から自分が魅力的に見えるようにするため、つまりドレスを飾るアクセサリーとして、彼女は本心ではない笑顔をつくり、本心ではない嘘の言葉を言うのです。彼女は無理をしているのです。
そんな彼女が本当に似合うのは装飾されたドレスではなく、もっと庶民的な、貧乏くさい袖のほつれたぼろシャツなのです。
鏡よ鏡 あたいは誰になれる
鏡よ鏡 壊れてしまう前に
つくり笑いとつくり言葉であたいドレスを飾るのよ
袖のほつれたシャツは嫌なの あたい似合うから
ここでサビに入ります。鏡よ鏡、これは言わずもがな白雪姫に登場する魔女が魔法の鏡に掛ける言葉です。白雪姫の魔女が鏡に問うのは「世界で一番美しいのは誰か」ということです。これは白雪姫の魔女の一番の望みが「世界で一番美しくあること」だからだと考えられます。
さて、この曲のあたいが鏡に掛ける言葉は「誰になれる?」という問いです。白雪姫の魔女に重ねるならば、彼女の一番の望みは「誰かであること」ということになるのでしょう。
つくり笑いとつくり言葉で虚を飾ってしまった彼女は本当の自分、ありのままの自分が分からなくなっている状態と考えられます。「自分は誰なのだろう、どんななのだろう」と自分を確かめるために鏡を見ても、彼女は鏡を見るときには芝居をしてしまう。そこに映るのは「虚像(芝居をした自分)」なのです。
以降が2番の歌詞となります。
放っておいてと口に出すのは本当はこわいのよ
でもそう言えば誰か来るのをあたい知ってるの
あたいは本心ではそこでさみしい、つらいと思っています。しかしそれをそのまま表現すると誰も来なくなってしまうことを彼女は知っています。そのため、彼女は本心とは裏腹なこと(=つくり言葉)を言い、本心とは裏腹な表情(=つくり笑い)をして、虚の自分を演じる必要があるのです。
明るい顔ができるまでには クスリたくさん必要よ
大丈夫よって言えるまでには お酒 必要よ
しかし本心でないつくり言葉を言うのは精神的な負荷が掛かりますし、つくり笑いをするのはもっと負荷が掛かります。そこでさみしい、つらいといった負の気持ち自体を裏返す(誤魔化す)ためにクスリやお酒を飲む必要があるのです。
鏡よ鏡 あたいは誰になれる
鏡よ鏡 壊れてしまう前に
明るい顔ができるまでには クスリたくさん必要よ
大丈夫よって言えるまでには お酒 必要よ
そして2番のサビに入ります。曲としてはこのあと2番のサビの繰り返しがありますが、歌詞としては以上となります。さて、ここで冒頭の歌詞に戻ります。
グラスの中に自分の背中がふいに見える夜は
あわせ鏡を両手で砕く 夢が血を流す
まず、あわせ鏡がどのようなもの、ことか今一度確認してみようと思います。
WikiPediaに良い画像があったので以下掲載します。(あわせ鏡で画像検索するとホラー写真がたくさん出てくるので検索注意です泣)
自分の背中を見るために、背面に鏡を一つ設置、そこに背中を写して、正面の鏡で背中側の鏡に映った像を見ることを「合わせ鏡(をする)」といいます。
つまり「自分の背中を見る」ための行為があわせ鏡なのです。
さて、1番と2番の歌詞を踏まえるとあたいがおかれている現状は以下のようになっていると考えられます。
そう、あわせ鏡になっているのです。そしてあわせ鏡で見えるものは自分の背中、自分の裏側である本心です。グラスの中にはつくり笑いとつくり言葉で飾ってなりたい夢を演じている彼女が映るはずなのに、そこに見えたのはさびしい、つらいと思っている本当の自分が写ってしまったのです。
「こんなのあたいじゃない」
そう思った彼女はこのあわせ鏡、表の自分と裏の自分を砕き、彼女は血を流すことになるのです。そしてその後の顛末はサビにつながることになります。
鏡よ鏡 あたいは誰になれる
鏡よ鏡 壊れてしまう前に
自分を砕いたあたいは鏡の前でこう問うのです。「自分は誰なのだろう、どんななのだろう」。しかし彼女は鏡の前では芝居をしてしまうため、本当の自分が分からない。結局本当の自分とは違う虚像を再び演じてしまうために、また酒とクスリが必要になるのです。
歌詞で歌われている壊れてしまうものは実は目の前にある鏡ではなく、虚像の自分と本心の自分、つまりあたい自身なのではないでしょうか。
以上より、この「あわせ鏡」のという歌は
なりたい夢になれないこと(≒現実)を受ける止めることができない「あたい」が、つくり笑い、つくり言葉で虚像の自分を演じるが、本心とのギャップを紛らわすために酒とクスリに溺れる。不意に自分がなりたい自分でないことに気付き、その度に演じる自分を変えていくが、現実を受け止めない限り、いつまで経ってもその連鎖から抜け出せず、そのうちに自分が分からなくなる
という歌なのかなと思います。この連鎖を現しているのか、曲自体も円環構造になってます。なりたい夢となれる夢が違うことを受け止められないことって大なり小なりありますが、そのことを多くの人は、多くの場合、諦めることで生きています。ただ人によってはどうしても諦められない夢もあるでしょう。この歌のあたいもそんな諦めたくない夢があったのでしょうか。もしかしたら、今となってはそれも分からなくなってしまっているのかもしません。
余談
この曲、地獄すぎやしませんかね。。。前回の「ファイト!」から一転して無常な歌でしたね。
「ファイト!」が収録されているのが1983年発売の『予感』だったので、この曲が収録されている『臨月』が発売された1981年から2年後ということになります。
2年間でだいぶ前向きになりましたね(笑)
この曲、1981年の『臨月』の後に2004年の『いまのきもち』にも収録されているのですが、曲調、歌い方が違うのでぜひ聞き比べてみてください!
(TSUTAYAに置いてるんじゃないかと思います。)
参照元
中島みゆき「ファイト!」の歌詞について考える
中島みゆき「ファイト!」の歌詞について考える
~川と海と魚と闘う君~
毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。
アラサーサラリーマンの私ですが仕事が辛いときにいつも聴いてる中島みゆきさんの歌について自分が感じたこと、考えたことをまとめてみようと思います。
まずは有名な「ファイト!」から。
中島みゆき「ファイト!」について
中島みゆきさんの「ファイト!」は1994年5月14日に発売された中島みゆきの31作目のシングルでもともとは1983年に発表されたアルバム『予感』の収録曲でした。
最近だと満島ひかりさんが2020年のFNS歌謡祭で歌って話題になりました。
「ファイト!」はこれまでに福山雅治さん、吉田拓郎さんなど多くのアーティストにカバーされている名曲で知名度も高いのではないかと思います。
「ファイト!」の歌詞を考える
そんな「ファイト!」の冒頭の歌詞ですが、純粋な応援歌というには少々暗い内容が多く、これって本当に応援歌なの?と思った方も多いはずです。
というのもこの「ファイト!」、ただの応援歌ではないからだと私は考えます。
以下では実際の歌詞を追っていきながら、この曲があなたをどのように応援しているか考えてみたいと思います。
※言わずもがなですが、以下は個人の感想でありますので、誤った解釈をしているかもしれませんが、ご容赦をいただければと思います。
あたし中卒やからね仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字はとがりながら震えている
消え入りそうなドラムと声で始まるこの歌詞。中卒の女の子は仕事を探していますが、バイト探しでしょうか。そんな悠長な状況ではないことが彼女の手紙の文字に表れる震えから伺えます。手紙を書いていることから、家族とは一緒に住んでいないのでしょう。実家から出て、暮らしていたものの、中卒であるために仕事がもらえず、お金が稼げないという不安な状況に彼女がいることが分かります。
ガキのくせにと頬を打たれ少年たちの眼が年をとる
悔しさを握りしめすぎたこぶしの中爪が突き刺さる
中卒だから仕事をもらえなかった少女の次はガキのくせにという理由で理不尽な暴力を受ける少年の様子が歌われます。
私本当は目撃したんです昨日電車の駅階段で
転がり落ちた子供と突き飛ばした女のうす笑い
私驚いてしまって助けもせず叫びもしなかった
ただ怖くて逃げました私の敵は私です。
場所は変わり電車の駅の話、ここで登場する"私"は理不尽な扱いを受けた被害者である少女や少年の場合と違い、ただの傍観者なのです。ただの傍観者であるにも関わらず、怖くて逃げてしまうのです。もし勇気があれば、突き飛ばした女に「何てことをしているのか」と問い詰めることもできたでしょう。目の当たりにした理不尽に立ち向かえないのは、怖いから。私の立ち向かうべき敵は私の臆病な気持ちなのです。
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ここでCMでも有名なサビに入ります。さて歌詞が「戦う」ではなく「闘う」なのはなぜでしょうか。
「戦う」は“戦争する。勝ち負けを争う”の意味です。例文としては「敵国と戦う」「選挙で戦う」「優勝をかけて戦う」など。一方の「闘う」は“困難などを克服しようとする”の意味です。つまり「闘う君」は競争で誰かに勝とうとしているあなたを応援しているのではなく、困難に立ち向かうあなたに対して「ファイト!」とエールを送っているのです。
ここで水の中をのぼるという歌詞が出てきます。これは魚の川登りのことでしょう。例えばサケ,マス,アユなどの魚は産卵のため川に登ります。このサビで「闘う人」が「川を登る魚たち」に例えられていくことが提示されます。
(中島みゆきさんの出身地が北海道であることから、この魚はサクラマスではないかと言われています。)
暗い水の流れに打たれながら魚たちのぼってゆく
光っているのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけてやせこけて魚たちのぼってゆく
川登りをしている魚について描写されています。暗い水に打たれボロボロになりながら川を登る魚。なぜ魚たちは懸命に川を登るのでしょうか?
勝つか負けるかそれはわからないそれでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめてあいつは海になりました
戦いの出場通知ではなく、闘いの出場通知。つまりこの出場通知はなにかしらの大会を勝ち進んで獲得したものではなく、困難に立ち向かう覚悟を抱いた(いだいた)、という意味なのではないかと思います。”あいつ”はそのような覚悟を抱いて、水の流れに身を任せ流れず立ち向かったのでしょう。それでも”あいつ”は海に流れ落ちてしまったのです。
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ここで2回目のサビとなりますが、ここまでの歌詞を見てみると1回目とは応援している対象と内容が違うことに気づくのではないでしょうか。1回目は怖がりな”私”を励まし、2回目は流れてしまった”あいつ”を讃えているように私は思います。
薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ滲んだ文字東京ゆき
歌詞中の「足で砂をかける」とは恩義のある人を裏切るばかりか、去りぎわにさらに迷惑をかけることのたとえです。田舎から若者が出ていくとその田舎の労働力が減ってしまうため田舎の人は快く思わなかったのでしょう。これまで育てた恩義も忘れて、どこかへ行ってしまうようならば、残した家族を酷い目に合わせるぞと脅しているのです。こういった理不尽に合い、田舎に残した家族のために、東京へ行くという夢を泣く泣く諦めようとしたが諦めきれず、燃やしたことにしてやっぱり燃やせなった切符を彼女は”あんた”に送ったのです。この東京ゆきの切符は彼女(彼)の闘いの出場通知そのものです。
あたし男だったらよかったわ
力づくで男の思うままにならずにすんだかもしれないだけ
あたし男に生まれればよかったわ
こういった性別による差別は現代でおいても最も大きな理不尽の一つなのではないでしょうか。この理不尽を前にしては「闘う」ことはできず、男に生まれ変わるしかないという「諦め」が歌われているように思います。
ああ小魚たちの群れきらきらと海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を身をよじってほどいていく
この小魚の群れはいったいどこから来たのでしょうか?この小魚はボロボロになりながら暗い水に打たれ川を上った魚たちの子どもなのです。歌詞中の魚たちは、理不尽な目にあった、理不尽を目撃して闘おうとした人々の例えです。彼らが闘わなければこの小魚たちは生まれることができず、海に出ることはできなかったのです。そして海に出た小魚の群れはきらきらと「国境」を越え、「諦め」という名の鎖をほどいていくのです。(かつては出身地のことを国と呼んでいたので、国境というのはおそらく歌詞中の田舎のことでしょう)
以上より、この「ファイト!」のメッセージは
理不尽に立ち向かう覚悟(闘いの出場通知)を抱いて、理不尽に立ち向かってもあなたが勝つか負けるかそれはわからない。でもあなたが闘うことによって、後を継いだ人(小魚たち)が理不尽に打ち勝つ可能性を切り開くのですよ、無駄じゃないよ、ファイト!
ということなのかなと思います。
頑張れば報われるから頑張れというただの応援歌ではなく、頑張ってもあなたが報われるか報われないか分からないけど、それは後を継ぐ他の誰かのためになるよ、だからあなたの努力は無駄じゃないよという応援歌なのかなと思います。「織りなす布はいつかだれかを暖めうるかもしれない」のです。
余談
このファイトが収録されているアルバム『予感』。
全体的に叶わぬ恋の歌が多い気がします。
しかも好きなあなたには私以外に好きな人がいるという内容。。。
いつか取り上げたいなと思います。
参照元
プライバシーポリシー
プライバシーポリシー
当サイトは第三者配信の広告サービス「Googleアドセンス」を利用しています。
Google などの第三者配信事業者がユーザーがそのウェブサイトや他のウェブサイトに過去にアクセスした際の情報に基づいて、適切な広告をユーザーに表示するため、 Cookie を使用することがあります。
ユーザーは、広告設定(https://adssettings.google.com/authenticated)でパーソナライズ広告を無効にできます。または、http://www.aboutads.infoにアクセスすれば、パーソナライズ広告に使われる第三者配信事業者の Cookie を無効にできます。
免責事項
当サイトで掲載している画像の著作権・肖像権等は各権利所有者に帰属致します。権利を侵害する目的ではございません。
当サイトからリンクやバナーなどによって他のサイトに移動された場合、移動先サイトで提供される情報、サービス等について一切の責任を負いません。
当サイトに掲載された内容によって生じた損害等の一切の責任を負いかねますのでご了承ください。