山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」の感想~真実を言葉で語ることは可能か、いや不可能だ、だったらどうする?~
毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。
今回は2024年9月6日公開の山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」についてです。
1回しか見ていないので、記憶が不正確な箇所があるかもしれませんが、振り返ってまとめておこうと思います。
※作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。
言葉に対する信用がゼロであるカナという存在
カナという少女は言葉を信じていません。信じていないというより、言葉で語られたことに本心や真実はないという信念があるように思います。その一方、相手の気持ちを鋭く察することができてしまいます。
カナから見ると、世界は「言葉」と「相手の思っていることや真実、事実」がまるで一致していないことばかりです。世界がおかしいのか、そのことを受け入れらない私がおかしいのか。その葛藤はハヤシに対する「お前がおかしいんだろ?」というセリフからも見てとれます。
彼女の仕事である脱毛についても「脱毛をすれば一生毛が生えない」とか「肌に良いジェル」みたいな言葉が並びますが、これらは真実でないこと、断言できないことをカナは理解しています。「ひんやりしま~す」も、言葉としては発話しているものの本当にひんやりするのかはカナにとっては分かりません。言葉は真実を捉えないことにカナは嫌悪、絶望、諦観等のネガティヴな気持ちを持っているように見えます。
中盤の対面でのカウンセリングのシーンで「思っていることとしていること、言っていることが違うのは怖い」といった旨を発言があります。「なぜ怖いの?」と聞かれたところでシーンが切り替わりますが、ここがこの作品におけるカナというキャラクターのコアだと見ました。
その理由は明確には明かされませんが、中国に母親が中国ルーツであり、もしカナが中国語が十全に理解できない環境で育ったとしたら、母親の心理(気持ちや感情)を言葉を通じて理解する、感じることが困難だったことが推測されます。そうなると、言葉ではなく他の方法で相手の心理を確かめるというのが彼女の生存戦略だったのだと思います。
それは異性とのコミュニケーションではキスだったり、セックスだったり、暴力になります。言葉よりは行動の方が彼女は信じることができるので、当初は濃厚な肉体関係を持つ今彼(ハヤシ)の方に好意を感じます。
(ホンダ 演:寛一郎さん)
(ハヤシ 演:金子大地さん)
ハヤシからプロポーズを受けて、カナはホンダと別れて同棲生活を始めますが、日常生活では言葉を使ったコミュニケーションは避けて通れません。しかしそれはカナにとっては嫌悪する状況です。だからあえて相手を挑発したり、取っ組み合いのケンカをすることで相手の気持ちと言動を一致させようとしますが結局は「怒り」という感情を発露させるくらいしかハヤシとのコミュニケーションができない状況に陥ります。
意味を持たない空虚な言葉遊びの達人
カナは言葉に対する信用がないからといって、言葉によるコミュニケーションができないわけではありません、むしろかなり達者です。論破王といっても過言ではありません。
カナはハヤシにかつて交際相手を中絶させたであろうことを問い詰めます。ハヤシはまさに「言葉を濁して」ごまかそう、やりすごそうとしますが、カナの追及に怒りを発露させます。
ホンダと別れた後、彼と再会した際には嘘(中絶の話)を交えつつ、ホンダに罪悪感を抱かせ、彼を振ることに成功しています。
冒頭、ファミレスでカナは友人であるイチカの話を聞いていますが、イチカは話が長いわりに「結局本心は何なのか」をまるで言わないので、半ば虚ろに応答をしていますが、それっぽい返しができています。結局ホストクラブに行きたいんだろうな、ということを汲み取り、イチカをホストクラブにおいて彼女は早々に立ち去ります。
言葉を駆使して相手の感情を引き出したり、相手を不快にさせない程度にはそれっぽい言葉を紡ぐことがカナはできるのです。これだけ巧に言葉を使役する彼女ですが、言葉には本心や真実がないと考えているように見受けられます。
ここら辺の実態や実感(本音や真実)を伴わない言葉によるコミュニケーションが本作のテーマの一つであるように思いました。
現実日本でも言葉のみが文脈から切り離され過剰にやりとりされる、いわゆるレスバや論破が流行って?いますが、これは言葉の意味する実態や実感を伴わない言葉(発話)のみが過剰に交わされる現象です。
こういった現実日本の、特に若者の流行を本作ではカナの言葉に対するスタンスや冒頭のカフェのシーンのビジネス?のあまりに抽象的な会話、「ノーパンしゃぶしゃぶ」というもはや実態のない言葉での会話で表象しているのだと考えます。
言葉で私の心を表現することは可能なのか?
では自分の本心を言葉で語ることはできるのでしょうか。もしそれができないとしたら、私の心はないことになってしまうのでしょうか。
それが気になったから、彼女はカウンセリングを受診したのだと思います。彼女がしきりに病名の断定を求めたのは、カナの本心を、カナの本心なるものが存在することを証明する、表現する言葉を病名に求めていたからだと思います。結局オンラインのカウンセリングでは病名の断定はしてもらえませんでした。
この問題に対する処方箋はお隣さんの女性から渡されることになります。
対面でのカウンセリングの後、お隣さんとキャンプ?をするシーンになりますが、その中で「「あなたのこと分かっている」と言われるのは嫌いだけど、「あなたのこと分かっている」と言われるのはうれしいでしょ?」と言われます。この言葉はカナの複雑な心境を表す言葉です。
(お隣さん(ひかり) 演:唐田えりかさん)
お隣さんはカナと似たような特性を持つ女性でありカナの理解者として登場しています。実際にカナとは事前に連絡をせずに、つまり言葉によるコミュニケーションをせずに、キャンプ?場所で会うことが出来ています。
カナと似たもの同士のこのお隣さんは英語を勉強していますが、これは自分の本心を表すことが不自由な異国の言語を用いることで「言葉は真実や本音を必ずしも表さない」ということを「アタマ」で理解するためだと思います。きっとこのお隣さんもカナと同様、「言葉」と「相手の思っていることや真実、事実」がまるで一致していない世界に違和感を感じていますが、それを「アタマ」で克服しようとしているのでしょう。
カナは自分と似たお隣さんから処世術を教わることで「言葉は真実や本音を必ずしも表さない」ことを受け入れる。。。と思いきやです。
最後のシーンの解釈
最後のシーン、カナとハヤシはケンカの後、冷凍庫にあったハンバーグを食べます。このハンバーグは元カレのホンダが作ったものです。ハンバーグを食べている途中に母親からビデオ通話が掛かってきて、中国で会話をします。その後、カナがハヤシを見つめて作品は終わります。
この一連のシークエンスから観客が考えるべきは「カナはハヤシと別れてホンダのもとに戻るのか」でしょう。ここは観客によって意見が変わるポイントかと思います。
私はカナはハヤシと別れてホンダのもとに戻るのだろうと考えています。その論拠は以下の通りです。
1.カナが涙目になっていたこと
2.ホンダの作った料理を決して食べなかった(ハムとアイスを食べていた)カナがハヤシの料理を食べていたということ(映画文法的に相手を受け入れたということだと解釈しました。)
3.ホンダは本心、愛情を行動で表現できる男性であり、カナは本来こちらの方が居心地が良いはずであること
ホンダはカナと別れた後、カナに会いに行き、フラれた後は号泣しています。この時、カナは「ヘンなやつ」と言っていますが、見方を変えれば、それだけカナのことを愛していると見ることもできます。
そもそもホンダと別れたことが彼女の信念と矛盾します。ホンダはカナに風俗にいったことを申し訳なさそうに打ち明けますが、彼女の信念に則るなら、風俗に行ったという発言だけでは、その言葉を信用しないはずです。カナがホンダの発言を信じたのは、言葉以外の所作に「真実」を感じたからだと考えます。ホンダに対しては、言葉巧みに本心を引き出す(怒らせる)必要がないのです。
またカナはホンダが風俗に行ったことに対して、おそらくなんとも思っていません。彼女自身浮気をしてますからね。
ハヤシとは怒りと暴力を通じてしかコミュニケーションができませんでしたが、ホンダとは怒りと暴力以外のコミュニケーションができています。どちらが彼女にとって本来心地よかったのか、そのことに気付きカナは別れを決心、悟ったのだと私は観ました。
名も知らぬ砂漠の名も知らぬ動物
ナミビアの砂漠というタイトル、そしてスクリーンに映し出される砂漠とオアシスですが、それが本当にナミビアにある砂漠か真実は決して分かりません。各人が実際に現場に行かないと分からないのです。そんな曖昧で不確かな世界に生きていて、言葉を話さずその本能のまま行動する動物の一人(一匹)がカナだと思います。
カナと年も(比較的)近いこともあって割と共感しながら本作を観ることができました。なんてカナに言ったら、きっと殴られてしまうでしょうね。


