今回は2024年10月4日に再公開、日本では2001年1月27日に初公開のスティーブン・ダルドリー監督「リトル・ダンサー」についてです。
1回しか見ていないので、記憶が不正確な箇所があるかもしれませんが、振り返ってまとめておこうと思います。
※作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。
既に名作として名高い「リトル・ダンサー」
2024年10月4日公開、日本では2001年1月27日に初公開となっており、本作はデジタル・リマスター版となります。
ボクシング映画に名作が多いというジンクスに漏れず、本作も名作として評価されています、まぁバレエダンサーを目指す少年の話なのですが。考察と解釈に溢れるジョーカーとは違い、素直に見て楽しめる作品です。
(ビリー 演:ジェイミー・ベル)
本作、映画サイトや批評家の評価も高く、舞台化もされている等、既に高い評価が与えられている作品です。なので、だれが見ても楽しめる作品であり、実際に鑑賞してみても確かにその評判に違わないのですが、ここでは何故こんなにもこの作品が支持されているのか、本作で取り扱わているテーマを拾ってみようと思います。もちろん見る人によってどんなテーマを見出すかは異なると思いますので、1つの解釈です。気になっている人は是非鑑賞いただくことをオススメします。
父ジャッキーと兄トニーを通して描かれる社会的背景
ここではビリーのストーリーではなく、対旋律である彼の父と兄がおかれていた状況について少し深堀というかラップアップをしておこうと思います。背景事情についての詳細はネットや書籍に文献があるので、気になる方はそちらを参照ください。
本作の舞台設定は1984年のイングランド北部の炭鉱町ダラムとなっていますが、ダラムでは炭鉱労働者によるストライキが実施されていました。主人公ビリーの父親と兄トニーはこの炭鉱労働者です。
このダラムの炭鉱労働者は、炭鉱を所有する炭鉱主から賃金のカットを提示されたため、団結してストライキ、つまり炭鉱での労働をしないことを選択していたようです。炭鉱労働者が労働してくれないと、炭鉱主は石炭を売ってお金を稼ぐことはできないため、賃金カットに対する反抗としての効果があります。
しかし、炭鉱労働者も労働をしなければ賃金は得られません。賃金、生活費がなければ生活は貧しくなってしまいます。一部の労働者はそういった状況に耐えられず、ストライキから離反し、炭鉱主が提示した安い賃金で炭鉱での労働に従事する人も出てきます。作中だと兄トニーの友人がその選択をしたようです。
デビー(女の子)の父親がこのストライキを揶揄するシーンがありますが、炭鉱労働者自身、このストライキが長くは続かないことは、自覚していたようです。生活費を稼げませんからね。
これだけの重い背景事情があっての家族の、父の決断と行動があるわけです。
本作には夢と可能性に開かれダラムを後にするビリーと夢と可能性に閉ざされダラムに残る父、兄という対比があります。ロンドンへ羽ばたいたビリーとは対照的に檻のようなエレベータに乗り、暗い地下に潜っていく家族のシーンは短いながらも観客に訴えかけるものがあります。
死にゆく故郷を後にする若者というストーリーは「ニュー・シネマ・パラダイス」でも描かれたモチーフですね。ビリーがどこまで自覚的であったかは分かりませんが、彼は故郷の望みを一身に背負い、華麗に跳躍するシーンで終わるわけです。巧い!
友人マイケルを通して描かれるジェンダーバイアス
もう一つ、本作では男らしさや”オカマ”(あえてこの用語を使います)の忌避というジェンダーバイアスがテーマとして扱われています。ビリーの父親はバレエダンサーというのは、典型的に女性的なものであり、それを男がやることはけしからんという思い込みがあるようです。
またこのテーマについて、本作を奥深いものにしているのはビリーの友人マイケルとの関係でしょう。マイケルは、性的志向として男性が好きということは明確に描写されており、おそらくは性自認としても女性に近い傾向があるのでしょう≒オカマです。
父は前述のとおり、男性的なものを要求し、オカマを忌避しています。そしてビリー自身も抵抗、違和感があるようです。おそらくマイケルはビリーがバレエを始めたと聞き、同類であると期待していたのでしょうが、ビリーからそうではないと否定されます。しかし、この作品の描写、シナリオとして上手いのはビリー自身がそうではないからといって、ビリーはオカマであるマイケルを否定せず、友人として彼の望みに最大限寄り添う姿勢を見せている点です。体育館のシーン、ビリーはマイケルにチュチュを着せて一緒に踊りますが、これはマイケルの望みを一緒に叶えてあげるビリーの優しさを描いているシーンです。
ただ、父やボクシングの先生はこの微妙な区別がつきません。「息子はオカマだった。。。」と思い込み、ショックを受けている様子でした。しかし、父はビリーのダンスを見て、そんな負の思い込みを覆すのです。美は性別を超越するという言説がありますが、まさにその通りでしょう。
最後のシーン、兄トニーと父はロンドンにビリーの初主演作を観に行きますが、エスカレーターを後ろ向きに乗る、足が進まないのは、父の気恥ずかしさといった複雑な心境を表しているように見ました。劇場に入ってからは始まる前から号泣してましたけどね、ジェンダーバイアスからの解放というカタルシスのあるシーンです。
先生サンドラを通して描かれる夢の継承
唯一、作品を鑑賞して見解けなかった点は、バレエを教えてくれた女先生サンドラ・ウィルキンソンが何者であったかという点です。もしかしたら舞台などの他の作品では補足されているかもしれません。
(バレエの先生サンドラ・ウィルキンソン 演:ジュリー・ウォルターズ)
ビリーの才能を見出し、適切にレッスンを行い、ロイヤル・バレエスクールに合格させていることから、ただのバレエ教室の先生ではありません。アスリート、アーティストで成功する方法を教えることができるのは、その道で成功した人だけです。
推測するに、ロイヤル・バレエスクールの紹介状を書いている点、その入学手順を知っている点から、おそらく彼女はスクールのOGだったのではないかと考えています。とはいえ、そんな彼女が何故、田舎の炭鉱町で町のバレエ教室の先生をしているかが作中では明確には描写されていなかったと思います。
仮に、彼女がスクールのOGであったとすると、この作品には名門のスクールを卒業したからといって、必ずしも活躍はできないという業界の厳しさ、あるいは大成するかしないか運次第という不条理も描かれていることになるかと思います。
作品の中盤、兄トニーが捕まるという家庭の事情と厳しいレッスンが重なり、ビリーがサンドラにキレるシーンがあります。あのシーンでビリーは彼女を侮辱していますが、もしこの仮説が合っているとすると彼女のデリケートな生い立ちをビリーが看破してしてまったシーンになります。図星を当てられた、トラウマを指摘されてしまったサンドラは思わず手が出てしまったのでしょう。無垢で無知な少年の配慮に欠けるとがった言葉です。それでも彼女はそこで彼を見捨てず、抱擁しています。とてもできた先生です。
最後、ビリーがサンドラにロイヤル・バレエスクールの合格を報告するシーン、彼女が妙にそっけないのは、ビリーの言う通り「色々あったから」というのもありますが、これからビリーに待ち受ける困難を、自らの経験からリアリティをもって想像できたからではないかと思います。喜びとともに、厳しい世界に少年を送り出してしまったことへの後ろめたさがあったのかもしれません。これからが大変であることを知っているが故に彼女はエールを送るにとどめいているのだと観ました。
もしこの説が合っているのならば、この物語にはサンドラが叶えることができなかった夢を、ビリーが叶えるというストーリーも乗ってくることになります。いったいどれだけのテーマを乗っけてくるんだこの作品は。。。
リトル・ダンサーは田舎の少年の成功譚ではありますが、そこに社会的背景や文化的背景、夢破れたもののリベンジマッチというテーマも取り込み、いずれも昇華させているという傑作でした。お見事!