映画週報「事後承認」(2025/2/11~2025/3/17)~ショーン・ベイカー監督「ANORA アノーラ」、ローラ・ワンデル監督「Playground 校庭」、テレンス・マリック監督「バッドランズ」~
毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。
1週間に観た映画の感想や解釈をまとめるシリーズです。
モンスターハンターをやっていたらあっという間に半月経ってしまいました。
久々の投稿です。
今回は2025/2/11(火)~2025/3/17(月)に観た作品、ショーン・ベイカー監督「ANORA アノーラ」、ローラ・ワンデル監督「Playground 校庭」、テレンス・マリック監督「バッドランズ」となります。
1回しか見ていないので、記憶が不正確な箇所があるかもしれませんが、振り返ってまとめておこうと思います。
※作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。
ショーン・ベイカー監督「ANORA アノーラ」
第77回 カンヌ国際映画祭(2024年)のパルムドール受賞かつ第97回 アカデミー賞(2025年)で監督賞、脚本賞、主演女優賞、編集賞受賞という大変見事な作品です。
調べる中で、近年のパルムドールに関する面白い観点の記事がありましたので、貼っておきます。
パルムドールの作品は作中に描かれている社会問題や人物ドラマを通じて観客に何かを考えさせる作品が多く、このANORAもそういった側面があったように思います。とはいえ、本作を一見すると、ラストに苦味の残る恋愛コメディという印象で終わってしまいます。さて、本作が観客に訴えかけているメッセージが何かあったのでしょうか?
私が気になったのは「母親」というキーワード(モチーフ、テーマ)です。本作における母親といえば、女帝の如きイヴァンの母親ですが、もう一人言及があったのは、イゴールの祖母です。イヴァンはクズで、イゴールはイイヤツなのですが、どちらの男性も彼らの人生設計において、母親や祖母からの影響を強く受けています。イゴールのセリフで彼の住んでいるアパートや車も「祖母から受け継いだものだ」といった趣旨の発言がありますが、敢えてそれを口にするということから、「祖母から賜った大事なもの」という意識があるように見えます。
(イゴール)
近年だとアリ・アスター監督「ボーはおそれている」でJewish Motherの息子に対する支配力の強さが、悪夢的に描かれていましたが、ロシア人(アルメニア人)の男子も同様なのかもしれません。
本作では司祭のトロスやイヴァンの父親等多くの男性が登場しますが、女帝であるイヴァン母に振り回されています。そして、男を手玉にとる、コントロールするという意味では主人公であるアノーラも同様です。
(左からイゴール、イヴァン、トロス、アノーラ、ガルニク)
彼女の職業であるストリップダンサーも男の性欲を用いて、男をコントロールする仕事ですし、本作のコメディパートであるイヴァン宅(厳密には親の所有物件ですが)でのシーンでは、イゴールもガルニクもアノーラに「負けっぱなし」です。アノーラはイヴァン母と対峙した際に「イヴァンは母親と違う女性である私を選んだのよ」と発言していますが、私から見るとアノーラもイヴァン母も似たような「強い女性」に見えます。
作中で明示されないので深読みになりますが、アノーラがロシア語を話さない理由はそのようなロシア女性の(世間のイメージとしての)強さを隠している、もしくはそのメタファーだったのではないかと考えます。アノーラは(本性としての)「女帝」的な一面・性質を隠しつつ、性風俗の仕事をしていたと考えると、本作は単なる幸せを逃してしまった女性の話というだけでなく、「抑圧された女性」の物語としても観ることができます。
アノーラという名前はロシア的な女帝、アニーという名前はアメリカ的なストリップダンサー(娼婦、ポルノクラシー)という二面性を象徴しており、パワー(金や権力)を持つ男性をコントロールする女性としてアノーラが描かれているとすると、それに振り回される男性の不甲斐なさを、コントラストとして描いているようにも思います。本作は予告で流布されていたパワーを持った男性から選ばれるシンデレラストーリーというよりは、パワーをもった男性をいかに取り合うか、コントロールするかという女の戦いを描いた作品であったというのが私の感想です。
ローラ・ワンデル監督「Playground 校庭」
素晴らしい胸糞作品でした。情報は何も入れずに観ることをオススメします。
本作はベルギーの学校が舞台でしたが、ドイツの学校が舞台の「ありふれた教室」でも学級運営が上手くいってませんでしたね。東欧の学校制度というか先生は大丈夫なのかね。
男子のイジメも過酷でしたが、女子のイジメも陰湿でしたね。そんな中主人公のノラちゃんは(ちょっとグレちゃってましたが)気丈に対応していたように思います。ノラを演じた子役さんの演技はとても上手かったですね。これからも末永く活躍して欲しいと思います。
テレンス・マリック監督「バッドランズ」
本作は1973年製作で、その当時日本では公開されず、テレビ放映時は「地獄の逃避行」というタイトルで放送されたようです。
マーティン・シーンが演じたキットは連続殺人鬼ですが、本作では彼のサイコパシーな人物造型がとてもよく描かれていました。目的のためなら手段を選ばないところ、自分が主人公であり、世界は自分を中心に回っていると心から信じているところ、人を殺したことに関する良心の呵責がまったくないところ、そして何より周囲からの好印象を受けているところがまさに厳密な意味でのサイコパスの特徴と合致していました。そういった特徴が映画から読み取れるのはマーティン・シーンの演技、演出やシーンのディレクションの巧みさの成せる技です。
現実世界ではサイコパスに遭遇してその被害を受けることも稀ですし、最近は「サイコパス」という言葉が独り歩きして、凶悪殺人鬼や突飛な言動をする人という印象がついてしまってますが、いずれもサイコパスではありません。殺人鬼にサイコパス傾向が高いというよりかはサイコパスに殺人鬼の傾向が高いのだと思います。
私の経験上、本作のキットのような人物が本物のサイコパスです。人にサイコパスの特徴を説明するのは困難です。というのも、サイコパスに遭遇していても、そのサイコパス自身が診断を受けてサイコパスだと認定されていることはほぼないため、厳密には被害者の主観的な意見でしかなく、被害者も第三者には「印象」や「断片的な行動」を伝えることしかできません。しかも、前述のとおり「印象」は良く、「行動」も暴力等物理的な被害を受けることはほとんどないため、人に話しても「それがサイコパス?」みたいなリアクションになってしまうのが大半です。ただ、被害を受けた人間は「あいつはサイコパスだ」という強い確信をもっています。
本作も見ている間や観終わった直後は、連続殺人鬼なのにやけにヒロイックに描かれていて奇妙な演出の作品だなと思ったのですが、(本物の)サイコパスを描いた作品だと理解してからは、本作の奇妙な演出の数々に合点がいきました。短時間しか接していない保安官や警官なんかは「ジェームズ・ディーンみたいだな」と好印象を抱いて、何ならチヤホヤしていますが、サイコパスは総じて親しみやすく第一印象は良いものです。
ヒロインであるホリーはナレーションの中で「誰とでも付き合えそうな彼(キット)なのに、どうして私なんかと付き合ってくれるのかしら」と言っていますが、サイコパスは操作しやすい人間に寄生して、自分の都合の良いように操るのです。物語の終盤、キットとホリーが離別するシーンで「○○で待ち合わせしよう」と伝え、キットは逃走を続けますが、この発言から、最後の最後までホリーをコントロールの配下に置こうとしていることが分かります。怖すぎる。。。
オチのナレーションで、「キットは拘置所でも人気になれたろうに、誰とも話せない独房に閉じ込められた」という説明がありますが、この処置はサイコパスの取り扱いとしては正解です。ホリーの推測のとおり、誰かと話せる環境にキットを置いておいたら、ホリーのようにコントロールしやすい人間(看守等)を見つけて、コントロールしていたでしょう。流石、専門の機関である警察はサイコパスのデータが豊富なのか、取り扱いを心得ていますね。
本作は本物のサイコパスとその被害者を正確に描いた作品であり、それだけでも一見の価値があると思います。
(左 ホリー 右 キット)



