ふじけんの映画ブログ

映画館で観た作品の感想や考察を書いてます。たまに好きな歌詞の解釈や勉強したことも載せてます。

映画週報「事後承認」(2025/1/28~2025/2/10)~ヨルゴス・ランティモス監督「籠の中の乙女」、デミアン・ルグナ監督「邪悪なるもの」、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督「ハイパーボリア人」~

毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

1週間に観た映画の感想や解釈をまとめるシリーズです。
先週は映画を観れなかったので今回はまとめて2週分です。

今回は2025/1/28(火)~2025/2/10(月)に観た作品、ヨルゴス・ランティモス監督「籠の中の乙女」、デミアン・ルグナ監督「邪悪なるもの」、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督「ハイパーボリア人」となります。

1回しか見ていないので、記憶が不正確な箇所があるかもしれませんが、振り返ってまとめておこうと思います。

※作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。

 

ヨルゴス・ランティモス監督「籠の中の乙女」

「哀れなるものたち」、「憐みの三章」で日本国内でも知名度の上がったヨルゴス・ランティモス監督の長編第三作で、日本では2012年8月18日に初上映だったとのこと。同監督の最新2作もそこそこ過激な性描写、暴力描写、スプラッター描写があったと思いますが、「籠の中の乙女」はこれらの作品よりもさらに過激な描写が多かったです。最近はセーブしているんですね。

本作邦題に乙女とついているので、女の姉妹の話かと思ったら、一家には長男がおり、彼の活躍で話がどんどん良くない方向に進んでいきます。籠の中の乙女というより、籠の中の子供たちといった方が適切なように思います。現代はギリシャ語で「Κυνόδοντας」となっており、邦訳すると犬歯なので、英題の「Dogtooth」の方が本来の意味に近いのですが、「犬歯」という邦題だとあまり意味が伝わらないという判断でしょうかね。

「犬歯」は本作で重要なアイテムです。子供たちを軟禁している父親が子供に対して、「犬歯」が取れたら家から出て良いと言っていますが、成人の犬歯は当然ながら抜けませんので、父親の言葉を真に受けるなら、子供たちは一生家から出ることができないことになります。犬という点では一家が犬のようにワンワン吠える訓練をするシーン、作品の終盤、長女が逃げ出そうとした際に、母親、長男、次女は家の外に向かって吠えているシーンは笑うというよりか引きましたね。子供たちは適切に教育されず、まるで犬のように「しつけ」をされていたことが分かります。

私はラース・フォン・トリアー監督の作品がとても好きで、過激な、生々しい描写や展開は似ているのですが、トリアー監督の作品では登場人物の内面が、時にはモノローグを通じて観客に開示されます。一方、ランティモス監督作品は登場人物の感情や思考が全く読めません。例えば、父親がいったいどのような意図をもってこのような仕打ちをしていたのか、母親が何を思っていたのかまるで分からないです。ランティモス監督の他の作品、例えば「聖なる鹿殺し」のマーティン(演:バリー・キヨガン)も、不条理を体現する存在であり、彼自身の感情は感じられませんでした。ランティモス監督作品の癖として、登場人物の一部は何かのメタファー、体現者、装置であり、基本的には人間ではないものとして観た方が良いのかもしれないと思いました。

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長女が家から出るためにダンベルで歯をへし折るシーンは劇場から悲鳴が上がっていました。描写も血がかなり生々しかったですね。。。性行為のシーンも長回しで撮影されていますが、これどうやって撮影したのか気になりました。俳優さん大丈夫かな。。。

以下、振り返りに拝見したブログです。ありがとうございます。

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デミアン・ルグナ監督「邪悪なるもの」

舞台はアルゼンチンの地方の村。悪魔付きと呼ばれる現象が発生し、その騒動に巻き込まれた村、そして主人公一家の話なのですが、観る前の予告からは村ホラーや因習オカルトものを想像していたのですが、観終わった後ではサスペリア3のような、超常的な力で社会とその構成員である主人公たちが騒動に巻き込まれていくホラーパニック、怪奇パニックもののような印象を受けました。

ことの発端は、牧場で発砲音を聞きつけた主人公兄弟ペドロとジミーが変死体と見つけるところから始まります。この遺体は不思議な器具を携帯していたのですが、ジミーがかつて懇意にしていたMirtha(ミルタ)も同様の器具を所有しています。ミルタの口からミルタが”処理人”であったことが語られるため、この死体も村からの要請で派遣された処理人だったことが分かります。処理人を殺したのは、悪魔に憑かれた長男ウリエルの弟(エデュアルド)です。彼は処理人だけでなく、自分の母親も食ったことが、エンディング前のラストシークエンスで明かされます。

冒頭の悪魔付きの衝撃的なシーン(体液の描写が気持ち悪くて最高でしたね)から始まり、悪魔付きとは何なのか、処理人とは何者なのかといった作品設定を徐々に明かしていく構成はなかなか巧でした。悪魔に憑かれたウリエルを車で村の外に捨てに行くときに轢きそうになった子供が後半の学校のシーンで登場するなど伏線の撒き方も巧かったです。

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さて、この悪魔付き、体液に触れてはいけない、体液が付いた衣服は焼却しないといけないという点から感染症の特性をもっているのかと思いますが、体液の付着だけでなく、衣服の匂いを嗅いだり、悪魔に憑かれた人や動物を銃で殺す等、予告でも紹介されている7つのルールに抵触しただけで悪魔に憑かれるというかなり強力な感染力を誇っています。処理人による措置を経ないと悪魔は浄化されないという点もなかなか厄介です。

この悪魔付きですが、作中の人物から「こんな田舎に発生するのは稀」である旨が語られたり、ミルタの口から「都市で流行するもの」という説明があるなど、不思議な設定になっています。また、7つのルールも電気を付けるなとか銃を使うな等、これまでのホラーではあまり見かけないルールになっています。正解は明示されませんが、都会に住む現代人が破りがちなもの、蔑ろにしているものと考えるのが良さそうです。現代版7つの大罪という意図で設定したのかもしれません。

1. 電気を点けるな
 →現代人に電気は必須です。
2. 動物に近づくな
 →田舎は土地が広いため、近づくことは稀なのでしょう。
3. 触れた物を身につけるな
 →ものを捨てるのには躊躇いがあります。
4. 彼らを傷つけるな
 →他者を傷つけるなということ
5. 彼らを名前で呼ぶな
 →よくないことを口にするな(Speak No Evil)
6. 絶対に銃で撃つな
 →銃で撃ってはだめ。
7. 恐れるな
 →文字通り!

まぁ、上記のルールを順守するのは、現代に生きている限り不可能なので、あってないような予防策でしたが。

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クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督「ハイパーボリア人」

前作「オオカミの家」は当初渋谷のイメージフォーラムのみで上映していた記憶があるのですが、どんどん拡大公開をしていき、次第に話題になっていった作品でした。本作「ハイパーボリア人」は「オオカミの家」を手掛けたクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督が手掛けた作品で、「オオカミの家」とはまた異なった趣向の作品でした。撮影の技能についても前作はコマ撮りアニメーションがメインでしたが、今回はコマ撮りではなくパペットがメインです。他にも、映画内のモニターに入ったり、かと思うとシーンがモニターに映っているようになったりと様々な表現上の工夫をしています。

主人公は女優のアントニア、この映画は彼女がスタジオでの撮影を開始する直前のスタンバイから始まり、数年前に紛失した作品の再現という体裁で作品が進んでいきます。この作品がややこしいのは、どこまでが作品の再現(作中作品)で、どこまでが作中現実なのか曖昧になっていく点です。作品を演じているうちに、作品の役と自分の区別が曖昧になっていくという作品はよく見られますが、この作品では自分や作中現実の人間がパペットに変化するので、強い違和感(異化効果)が発生します。

どのシーンが作中現実で、どのシーンが作中作品かの区別は配信やDVDで確認しないと特定は困難でしょう。ただ、重要なのはアントニアが地下世界に入った後のシーンで、それまでのシーンはそれほど重要ではないと考えます。アントニアは地下世界でクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督と出会い、ドイツ人の父、チリ人の母というルーツをもっていたという設定であること、作品内(作中現実及び作中作品)のクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督が彼女を利用して、作中現実に総統を復活させるという企みをしていたという点が語られます。本作はこの点が重要です。

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(左:アントニア 右:メタルヘッド)

両監督は実写女優のアントニアを謎の装置に拘束し、アントニアのコピー(パペット)を作り出します。このアントニアのコピーにメタルヘッドが隠し持っていた「総統の記憶フィルム」を見せることで、総統の人格をアントニアのコピーに複写し、アントニアのコピーにの肉体を持った総統を復活させ、作中現実に送り出します。作中現実の両監督が紛失した作品の再現をアントニアに持ち掛けたのは、紛失した(もしかしたら両監督の企みに気付いたメタルヘッドが盗み出した)「総統の記憶フィルム」を手に入れるのが目的だったのでしょう。

ラストシーン、アントニアが観客に「お静かに!」と協力を語りかけるシーンで幕を閉じます。ラストシーンのアントニアはおそらく総統の人格が挿入されていますので、私たち観客は総統の言いなりになってしまったわけです。しまった!

地下世界に入った後、作中のクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督が総統の復活のためにフィルムによる映像を見せるという手段を用いていますが、これを「映像を見せることで他者の人格に介入する儀式」と解釈すると、我々現実世界の観客もこの手法によって人格に介入されてしまっていることになります。現実世界のクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督が作品内と同様、総統の復活を願っていたとしたら、我々は「ハイパーボリア人」という映画を観たことにより、総統の人格を植え付けられてしまったかもしれません。

本作は映像を用いた洗脳体験というか、ホラー映画リングのように映像を観ることによって呪いのような負の影響を受けるという体験ができる作品になっています。

まぁ、「映像を見せることで他者の人格に介入する儀式」はあくまでもフィクションであり、作品内のルールで、心配には及びません。ただ、「ハイパーボリア人」の映画にサブリミナルが挿入されていたら、もしかしたら観客は無意識に良くない影響を受けているかもしれません。

本作は「オオカミの家」ほど、映像の不気味さ、不穏さはありませんが、監督の企みの邪悪さは「オオカミの家」よりも恐ろしいものだったのかもしれません。

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