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森ガキ侑大監督「愛に乱暴」の感想~ペルソナを作る桃子の壊れゆく心~

森ガキ侑大監督「愛に乱暴」の感想~ペルソナを作る桃子の壊れゆく心~

毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

今回は2024年8月30日公開の森ガキ侑大監督「愛に乱暴」についてです。
1回しか見ていないので、記憶が不正確な箇所があるかもしれませんが、振り返ってまとめておこうと思います。

作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。

 

 

本作における2つの謎

本作において、終盤まで引っ張られた謎は「ぴーちゃん」は何か(誰か)ということ、そして主人公の桃子がスマホで見ていたアカウントは誰のものかという2点です。

本作ではこの2点を最後の最後までうまくミスリードしており、そのネタバラシもセリフで語らせるのではなく、シーンの些細な描写で見せている点が巧みです。

作品の序盤は桃子が猫の鳴き声に反応しており、エサ皿がいつの間にか空になったことを気にしていることから桃子は家出した猫を探しているように見えます。作品の中盤(夫のスーツケースの中の衣服がきれいに折りたたまれていることに気付いたシーン)からはぴーちゃんが床下にいるのではないかと考え(疑い)チェンソーで床を切ることになります。

桃子が床をチェンソーで切るシーン、チェンソーを赤子のように抱きしめたあと、けたたましい音とともに笑顔で床を切る様はまさにカタルシスがあります。このシーン、実はすでに床を切断した跡があります。このことから観客は以前にも桃子は床を切断しており、何かをそこに置いた(彼女の何かを手放した)ことに気付くことになります。

そこにあったのは赤ん坊用の服であり、彼女には生まれなかった子供がいたこと、そして、その水子を桃子は「ぴーちゃん」と呼んでいたことがネタバラシされます。巧い。

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(桃子 演:江口のりこさん)

もう1点、桃子がしきりにチェックしていたSNSの妊活アカウントが誰のものなのか、作品の序盤では真守の不倫相手の三宅のアカウントのように見えますが、私は(作中で名言されないものの)これはかつての桃子のアカウントであると考えます。

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(真ん中の女性が三宅 演:馬場ふみかさん)

桃子が実家に立ち寄った際に母親から要らないものを捨てるように言われ、押し入れの荷物をゴミ袋に詰めていますが、そこにSNSの妊活アカウントの女性が着ているドレスがあります。このドレスを手に取った際、桃子は何か考え事をしているかのように数秒間固まっており、思い入れのある品であるかのように描かれています。

桃子と真守には子供はいないですが、ぴーちゃんが流産してしまった子供であることを踏まえると、かつて妊娠していた桃子がSNSで妊活アカウントを運用していたことも一応筋は通ります。

一応は。。。

桃子の認知の歪み、狂いとペルソナ

流産してしまった子供を「ぴーちゃん」と呼んでいたり、自分が運営していたアカウントが桃子自身、誰のものか分からなくなってしまったり、明らかに桃子は壊れてしまっています。

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これには彼女の処世術というか生存戦略として、受け入れられない出来事があったとき、現実の認識を歪める(認知整合化)という仕草があり、それが限界を超えたために、水子をぴーちゃんと呼ぶ、自分のアカウントが分からなくなるといった事象に繋がっていると考えました。

桃子は真守の元妻を離婚をさせています(これは義母である照子と真守の会話から分かります、つまり真守の2番目の配偶者で、三宅は3番目の配偶者)。ここまでして掴んだ幸せの、その象徴である子供を失ったことを桃子は受け入れることはできず、生まれなかった子供はペットのことだ、と無意識に現実の認識を歪めることで辛うじて気を保っている(生存している)のだと観ました。

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(左が照子 演:風吹ジュンさん)

作品の冒頭、あるいは予告編を観た観客はこのぴーちゃんという名前に違和感を覚えるはずです。彼女はどうやら猫を探しているようなのに、その名前には(一般的には)鳥につけるであろう「ぴーちゃん」という名前を付けています。

実際にはぴーちゃんは水子です。つまりこの世に存在しません。この世に存在しないものをペットとして認識するという整合性の取れないエラーが、猫に鳥のペットの名前を付けるというエラーに表象されているのだと観ました。

現実への過剰適応と桃子の心の限界

本作では主人公の桃子には様々な役割(ペルソナ)を持つことが描かれています。真守の妻、照子の嫁、元正社員、そして現在はパート社員です。彼女は市民向け?の講座の講師として石鹸作りを教えており、この講座のオーガナイザーである会社にかつて勤めていました。講座はとても人気で、かつての上司からは優秀であったと評価されています。

桃子は良き妻であり、良き嫁であり、良き先生であり、良き社員であり、まさに非の打ちどころのない女性として描かれています。彼女は求められる役割に対して、適切に応えており、相手の望みに応じたペルソナを作りだすことに長けていると言えるでしょう。

しかし、それができないような出来事が起きた場合、彼女はエラーを起こしてしまうのだと考えました。

作中では、夫からの愛を得られず、姑からはどこか煙たがられ、講座も会社の都合で終了し、上司からは結局制度上、復職できないことを告げられます。こういった出来事が積み重なり、彼女の中でエラーが溢れてしまい、桃子の心は壊れてしまったのだと観ました。そしてかつては流産の体験で同様に心が限界がきてしまったのでしょう。

桃子の周囲の人間からすると、ここまで多様なペルソナを使い分ける桃子の本心を見極めることはとても困難です。いい人だけど、何を考えているか全く分からないのです。特に身近な存在である夫の真守、姑の照子はどことなく居心地の悪さを感じていたのでしょう。

照子もずっと桃子のことが理解できなかったはずです。とても親切に接してくれてはいますが、色んなことがあったし、良い嫁を演じているだけなのではないか。。。

そんな照子が桃子の気持ちの一端を理解するのが、桃子が床下に隠した「ぴーちゃん」の服を見つけた場面です。そこでようやく照子は桃子が抱えていた悲しみに気付くことになります。

このシーンは伝統的な「家」の下に、桃子という女性が隠した「悲しみ」を見つけるという、作中でも重要な転換点のシーンであるとともに、メタファーにも富んだシーンとなっています。巧い!

桃子に限らず、人は色々な顔を持つ

個人的には最後のシーケンスの義母の言動がとても好きです。桃子の背負う悲しみを、「母親として」理解した後、姑でなく、一人の女性として、彼女に(物的な)援助と励ましを申し出て、自らは旧式の日本家屋からの転居するという決断をします。

作中の話運びとしても、息子であるマモルの側にいることができない、ご近所に合わせる顔がない、赤の他人となった桃子と一緒に暮らすのは気不味いといういくつかの動機が自然に読み取れ、桃子と同様に照子もいくつもの顔(ペルソナ)をもった女性であり、そんな彼女の決断としても受け取れるようになっています。

まるで少女革命ウテナの最終話のような、そんな感動がありました。

人には様々な一面があります。

旦那のマモルも、クソ夫でクソ男のように描かれてますが、外では子供の落とし物を拾ったり、新妻にはお土産を買って帰ったりと、良い面があることが描かれてます。

青木柚君演じる役の男子社員も、一見好青年に見えて、ゴマすりな面があることが食堂内での会話から分かる等、人の多面性が本作のテーマの一つであると観ました。

一方で三宅さんは桃子の訪問の後で観葉植物の手入れをしており、全く気に留めてない等、観客としては心象の悪くなるような描写もありますが。。。

「人には色んな面があるよね」と言ってしまえば陳腐ですが、すべての要求に応えることはメンタル的に莫大な負荷を伴います。新たな旅立ちを迎えた桃子が、彼女自身の心を破壊することなく生きていけることを願うばかりです。