ふじけんの資材置場

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中島みゆき「ショウ・タイム」の歌詞について考える

中島みゆき「ショウ・タイム」の歌詞について考える

~ショウ・タイムという病理の現在~

毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが仕事が辛いときにいつも聴いてる中島みゆきさんの歌について自分が感じたこと、考えたことをまとめてみようと思います。

今回は個人的には今の時勢にも突き刺さる強いメッセージを持った一曲、「ショウ・タイム」をご紹介します。

 

中島みゆき「ショウ・タイム」について

中島みゆきさんの「ショウ・タイム」は1985年11月7日に発売された13作目のアルバム『miss M.』(ミス・エム)の収録曲です。『miss M.』に収録された曲の好きな歌詞については別記事でまとめているのでそちらも是非ご参照ください。

fuji-ken.hatenablog.com

「ショウ・タイム」の歌詞を考える

そんな「ショウ・タイム」歌詞ですが、歌詞に込められた皮肉やメッセージは35年経った現在2020年にも通ずるものがあります。正直当時の世相は分かりかねる部分があるので、その当時生活していた方々に詳しい話を聞いてみたいのですが、頑張って調べたので「ショウ・タイム」の歌詞を考察。。。というよりも紹介したいと思います。

※言わずもがなですが、以下は個人の感想でありますので、誤った解釈をしているかもしれませんが、ご容赦をいただければと思います。

日本中このごろ静かだと思います
日本中秘かに計画してます
なにも変わりありませんなにも不足ありません
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

生前の日本の出来事は調べることしかできないので、実際にどうだったか私が断定することは難しいのですが、1980年代前半の日本は第二次学生運動あさま山荘事件、ハイジャック事件があった1970年代と比べて落ち着いた時代だったのだと考えられます。

※当時の日本の出来事と写真が以下のサイトにまとまっていたのでこちらを参照しました。文字情報ではなく視覚情報で当時の状況が分かるので勉強になりました。

www.aflo.com

日本中望みをあからさまにして
日本中傷つき挫けた日がある
だから話したがらない だれも話したがらない
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

おそらく1945年の敗戦のことでしょう。さて「なにを」話したがらないのでしょうか。具体的かつ一意な答えはないと思いますが、おそらくは「日本の現実のこと」でしょう。日本の問題とされていることは今も昔も多々あり、解決したものもあれば、未解決のものも多くあります。そういったことを語りあうのは憚られる空気が1980年代当時もあったのでしょうか。

余談ですが、私は去年「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という映画を観ました。この対談があったのが1969年、三島氏の自死が1970年でした。1970年当時はこの映画で描かれているように日本の過去、現在、未来について真剣に考える機会もあったのだと思いますが、そういった時代と比べると、1980年代は日本について考えて、語る機会が少なくなっていったのだと推測してます。

eiga.com

いまやニュースはショウ・タイム
いまや総理はスーパースタ-
カメラ回ればショウ・タイム
通行人も新人スター
Watch & enjoy チャンネル切れば別世界

サビです。ショウというのは舞台を中心とする演劇などの見世物・興行のことです。スターというのは演劇・映画・プロスポーツなどの興行分野におけるスターシステムでおいて、高い人気を持つ人物のことです。スターシステムについてはWikipediaによる定義は以下の通り。

『その興行のスター・システム(英語:star system)は、多くは演劇・映画・プロスポーツなどの興行分野において、高い人気を持つ人物を起用し、その花形的人物がいることを大前提として作品制作やチーム編成、宣伝計画、さらには集客プランの立案などを総合的に行っていく方式の呼称。』

このサビの歌詞は、ニュースは見世物興行であり、総理や通行人の人気で番組が組み立てられているようだけどそれでいいの?という疑問提起のようにみえます。
「人気」とか「面白そう」、つまり視聴率が稼げそうという観点のみでニュース番組を構成し、「第4の権力」としての役割を果たさないのであれば、ニュースは所詮見世物でしかないといえるでしょう。

以降、2番となります。

人が増えすぎて区別がつきません
みんなモンゴリアン区別がつきません
私 特技はハイジャンプ 私 苦手は孤独
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

モンゴリアンというのは黄色人種のことです。ハイジャンプは走り高跳びのことですが何か別の意味があるのでしょうか。区別がつかない没個性モンゴリアンの「私」は虚像の世界への憧れがあるようです。

決まりきった演説 偉いさんの演説
揺れるジェネレイションイライラの季節
息が詰まりそうな地味な暮らしが続く
いいじゃないの 憧れてもすてきなショウ・タイム

決まりきった答弁をする偉いさんって昔からいたんですね、というか偉い人ってみんなそんなものなのか。そんな偉いさんを見た、地味な暮らしをしている「若者」(特定の年齢帯というより、偉いさんとの対比としての若者です。)がイライラを募らせるというのも今と変わらない気がします。そんな「若者」が憧れるのは、「すてきな」ショウ・タイムなのです。
ここまでの歌詞より、ニュースがショウ・タイムになってしまったのは、見世物同様のニュース番組=人気重視の「すてきな」ショウ・タイムを見たい、もしくは出演したいと憧れる「若者」が大勢いるためであるとも考えることができます。
「日本の現実のこと」というのは多くの場合直視したくないものであり、これから目を背け「すてきなショウ・タイム」ばかり見たくなります。しかし、そうしているとますます国のことが分からなくなるという「衆愚」の構造が、中島みゆきの作品にしばしば登場する「悪循環」としてこの歌にも見出されているように思います。

いまやニュースはショウ・タイム
乗っ取り犯もスーパースター
カメラ回ればショウ・タイム
私なりたいスーパースター

ここの乗っ取り犯というのはすてきなショウ・タイムに憧れた「若者」のなれの果てだと考えてます。虚像の世界(⇔現実の世界)に翔んでスーパスターになりたい「若者」はこの乗っ取りという事件を起こすことで世間の注目を集めようとしたのでしょう。

Watch & enjoy チャンネル切れば別世界

虚像の世界であるショウタイムを見ている間は楽しい。しかしテレビを消せば、地味な暮らしという現実が待っているのです。そう考えると、いつまでもチャンネルを切ることができないのです。

余談

この歌が発表された当時はテレビがマスメディアとして非常に大きな影響を持っていました。故にここで歌われるショウ・タイムもおそらくテレビ番組を想定しているのだと思います。

テレビはオワコンと言われる2020年現在でも、1985年に中島みゆきが見つけたショウ・タイムの病理は35年経って解消するどころか、テレビだけでなくSNSYoutubeにも伝播し、益々拡大しているように思います。

Youtubeはまさに「没個性な個人である私がスーパースターになれる場」として年々発展しています。このYoutubeで行われる多くのショウ・タイムは「現実」(国のこと、政治、経済など)を一切含まないという点でテレビのショウ・タイムよりも純度の高い「虚像の世界」を構築していると言えるでしょう。

一方のテレビにおけるショウ・タイムについても、バラエティ色の強い報道番組が増えており、「現実」を十分な信頼性をもって伝える場としてのニュース番組は少ないのが現状のように思います。ショウ・タイムの場がテレビからYoutubeに移った現在、テレビは本来の第4の権力としての役割に回帰するという選択もありな気がします。

スーパースターになりたい個人が、ショウ・タイムを発信できる時代になりましたが、これからショウ・タイムという病はどのように進化、拡大していくのでしょうか。。。

参考

1980年代の日本 - Wikipedia

ハイジャンプとは - コトバンク

 

 

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