ふじけんの資材置場

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中島みゆき「傾斜」の歌詞について考える

中島みゆき「傾斜」の歌詞について考える

~老婆が坂を登り続けることができるワケ~

 

毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが仕事が辛いときにいつも聴いてる中島みゆきさんの歌について自分が感じたこと、考えたことをまとめてみようと思います。

今回は個人的に頭を悩ませた曲の一つ「傾斜」をご紹介します。

 

中島みゆき「傾斜」について

中島みゆきさんの「傾斜」は1982年3月21日に発売された中島みゆきの9作目のアルバム『寒水魚』の収録曲です。2004年11月17日に発表された、32作目のオリジナルアルバム『いまのきもち』にも収録されています。前回の「あわせ鏡」も『いまのきもち』に再録されてますね!

fuji-ken.hatenablog.com

 

タイトルの「寒水魚」は熱帯魚をもじった造語だそうです。熱帯魚はあったかい海に住んでいるカラフルな魚ですが、寒水魚は冷たい海に住んでいる地味な魚ですかね。。。
以下、北極の魚です、ご参考まで

oceanexplorer.noaa.gov

「傾斜」の歌詞を考える

そんな「傾斜」歌詞ですが、どうやら高校の国語の教科書に掲載されたようです。
ただ、どの出版社のいつの教科書か分からないため、真偽不明です。

もし本当に国語の教科書に記載されていたとしたら、当時の学生はテストで作者のきもちを考えさせられたり、感想文とか書かされたりして、点数を付けられたり、成績を付けられたりしたのでしょうか。。。

と、いうことで、私もこの「傾斜」を頑張って読んだので以下綴っていきたいと思います。教科書をお持ちの方は採点をお願い致します!

※言わずもがなですが、以下は個人の感想でありますので、誤った解釈をしているかもしれませんが、ご容赦をいただければと思います。

傾斜10度の坂道を
腰の曲がった老婆が 少しずつのぼってゆく
紫色の風呂敷包みは
また少しまた少し 重くなったようだ
彼女の自慢だった足は
うすい草履の上で 横すべり横すべり
のぼれども のぼれども
どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ

老婆、少しずつ登る、重くなった、うすい草履、横すべり、どこへも着きはしない

これらの言葉を聞くと老婆はゴールもなく、重い荷物を背負い、うすい草履で傾斜を登らされているという「絶望的な状況」に置かれているように思えます。

冬から春へと坂を降り 夏から夜へと坂を降り
愛から冬へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

この歌詞に出てくる坂を図にすると以下の通りになります。

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春と夏のつながりは明示されてませんが、四季の移ろいと同じと仮定しました。
坂を降りて、登ろうとすると傾斜が険しくなるとあるので、このように麓に向けて急になる坂と考えられます。この坂を登るには「愛」を受けて、あるいは愛を動機に、人づたいに登る必要があります。

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坂2

さて、ここの歌詞、冬、春、夏と続いて次が秋ではなく夜なのはなぜでしょうか。
私はここでいう夜は「四季がなく、停滞した状態」であると考えます。
例えば、朝や昼であれば「雪が積もった」、「桜が咲いた」、「太陽がまぶしい」など四季を移ろいを感じることができますが、夜で真っ暗だとそういった変化は分かりません。ただ暗いだけなのです。
もちろん現実には明かりがあり、気温もありますから夜でも四季の移ろいはわかりますが。。。あくまで解釈ということで。

としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか

ここでサビに入ります。このサビの歌詞についてはネット上でも感想や解釈が多いですね。中島みゆき作品の数少ないCall and Responseだからでしょうか(笑)


みゆきさん「としをとる(忘れっぽい)のはステキなことです そうじゃないですか」(Call)

聴衆1「そうだ!」(Response)

聴衆2「ちがう!」(Response)

聴衆1&聴衆2「えっ。。。」

自分が国語の先生ならここの賛否とその理由を説明させますね(笑)
まずサビの後半、悲しい記憶の数が増えると「荷が重く」なります。
そして背負いきれなくなる、つまり飽和の量より増えてしまったら背負わず捨てる、つまり忘れるしかないのです。

忘れっぽいというのはこの悲しい記憶の数は飽和の量のぎりぎりの状態であること、それはとしをとるにつれどんどん増えていった状態と考えられます。こう考えるとみゆきさんのCallには「No!」と言いたくなりますね。さて2番の歌詞に進みます。

息が苦しいのは きっと彼女が
出がけにしめた帯がきつすぎたのだろう
息子が彼女に邪険にするのは
きっと彼女が女房に似ているからだろう
あの子にどれだけやさしくしたかと
思い出すほど あの子は他人でもない
みせつけがましいと言われて
抜きすぎた白髪の残りはあと少し

この歌詞の「~だろう」と考えているのは誰か明示はされておりませんが、おそらく冒頭の歌詞の老婆の夫だと私は考えてます。以下老翁とします。
この仮定を基に歌詞の内容を図にすると以下の通りと考えられます。

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家系図

「あの子」というのが孫のことか、=彼女のことか悩んだのですが、「彼女」と使い分けられていることから彼女とは別の主体と考えました。
さて歌詞を見る限り、この歌詞に登場する人物全員が「完全に幸福」な状態とは言えないように思います。「嫁」である彼女が締めた帯はきつい、息子は「妻」である彼女を邪険に扱うなど、小言はありそうです。
しかし、この老翁は「孫」であるあの子に「他人」ではないと思うほどには優しく接しています。この老翁は「老人」であると同時に彼女にとっての「義父」であり、あの子にとっての「祖父」であり、彼らは「家族」なのです。

そんな「家族」のいる老翁の白髪、つまり「としをとっていることを見せつけるもの」はあと少しでなくなる、つまり髪が抜けるほどにとしをとったことが分かります。
そして老翁の「女房」である老婆も同じように「妻」として、「母」として、そして「祖母」として、としをとったことが分かります。

誰かの娘が坂を降り 誰かの女が坂を降り
愛から夜へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

ここの歌詞は1番の歌詞と対応しており、文章を補うならば以下の通りになるでしょう。

誰かの娘が冬から春へと坂を降り 誰かの女が夏から夜へと坂を降り
愛から夜へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

 1番では愛から冬へと人づたいに登れていたものの、この女は愛から夜にしか登れておりません。なぜでしょうか?

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坂3

ここで坂を降りているのは「誰かの娘」、「誰かの女」であり、特定の誰かと、特別な関係を有しておりません。言い換えるとこの娘、女は誰かとの家族関係を持たない女性であると考えられます。

例えば、「ふじけん(という特定の誰かの)」の「娘」であればそれと同時に「ふじけん(という特定の誰かの)」の「子供(という特別な関係)」もしくは「ふじけん(という特定の誰かの)」の「嫁(という特別な関係)」となりますし、同様に「ふじけんの女」であればそれと同時に「ふじけんの妻」になります。家族がいる女性は一人の女であると同時に「嫁」、「妻」となります。
一方、この歌詞に出てくる女性はそういった関係を持たない「誰かの」女なのです。この誰かの女は愛を受けて人づたいに坂を登ることはできず、夜にしがみつくしかできないのです。

このあとサビが再出し、そのあとに1番の歌詞が再出します。
さて、ここまでの歌詞を踏まえて、冒頭の老婆をもう一度見てみましょう。
この老婆は老翁の女房であり、息子の母であり、あの子の祖母であります。

傾斜10度の坂道を
腰の曲がった老婆が 少しずつのぼってゆく

まず、この傾斜10度というのはそこまで急ではありません。
この坂は麓に掛けて急になる坂なのでこの老婆は山頂に近いことが分かります。
老婆は少しずつ、少しずつ登ってきたのです。

紫色の風呂敷包みは
また少しまた少し 重くなったようだ

「紫色の風呂敷包み」という単語でGoogle検索をしてみてください。
高級そうな画像、贈り物の画像が出てきます。つまりこの老婆の背負ってる風呂敷包みには「貴いもの」、「贈られたもの」が詰まっていると考えられます。これは物理的な「物」というよりは「思い出」のようなものかもしれません。
老婆は風呂敷包みの中身を捨てずに背負い、そしてその風呂敷包みはまた少し重くなったのです。

彼女の自慢だった足は
うすい草履の上で 横すべり横すべり

 草履が薄くなっているのは、紫色の風呂敷包みを背負って、彼女がずっと坂を登ってきたから。彼女は坂を降りず、その自慢の足で、坂を登ってきたのです。少しずつ重くなる紫色の風呂敷包みを背負い、老いてなお老婆は坂を降りず、少しずつ、少しずつ登っているのです。

のぼれども のぼれども
どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ

どこへも着きはしないことが分かっていながら、それでも老婆は坂を降りず、坂を登り続けることができるのは老婆が「妻」であり、「母」であり、「祖母」であり、夫から息子から孫から愛を受け、また愛を与える関係にあるからだと考えます。
家族関係というのは須らく幸福な状態とは言えず、ときに悲しい記憶も増えるでしょうが、それでも紫の風呂敷に包みたくなるような思い出も増えていくのです。

としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか

さて、この歌詞ですが、個人的には以下の通りResponseします。

「としをとるのはステキなことです そうじゃないですか?

→独りならばNo,独りじゃないならYes

「忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか?」

→独りならばYes,独りじゃないならNo

冬から春、夏へと四季の移ろいに身を任せ、夜に向かって坂を降り続けるならば、としをとるのはステキではないですし、悲しい記憶の数ばかり増えていくようなら何も背負わず忘れっぽい方がステキです。
ただ、あなたが独りではないならば、としを取るほど紫の風呂敷包みは増えていきますし、そういった思い出は忘れずにいられる方がステキなことだと私は思います。

そして、多くの人は実は独りではないのですが、そのことをついつい忘れてしまうのです。

余談

この歌詞、個人的には「ファイト!」と似たようなメッセージがあると思いました。
「ファイト!」には「水の流れに身を任せ、流れ落ちてしまうのが楽なのにね」という歌詞があります。これをこの傾斜の舞台に当てはめるならば、「四季の移ろいに身を任せ、転げ落ちてしまうのが楽なのにね」ということができるでしょう。

しかし多くの人はそれでも川を登り、坂を登るのです。

相違点とするならば、「ファイト!」が自身の内に秘めたる希望、野心のようなもので川を登っていたのに対し、この「傾斜」では人づたいに坂を登っていることでしょうか。どちらが正というよりも、どちらも必要なものだと私は思います。坂を登るのには、自慢の足(坂を登るための覚悟)も大切ですが、ときに手を差し伸べてくれる人も同じように大切でしょう。

妄想になりますが、この坂の名は「あぶな坂」という名前ではないかと考えています。
そう考えるとこの「傾斜」に登場する老婆の前日譚が語られていることになるのですが、その前提で近々記事を綴ってみようと考えています。

参考

寒水魚 - Wikipedia

 

他記事へのリンク

よかったら是非。

fuji-ken.hatenablog.com

 

 

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  • 発売日: 2018/04/04
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