ふじけんの資材置場

考えたこと、勉強したことの置き場所。勉強した内容のメモ、好きな歌詞の解釈、最新映画の感想など。

中島みゆき「ショウ・タイム」の歌詞について考える

中島みゆき「ショウ・タイム」の歌詞について考える

~ショウ・タイムという病理の現在~

毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが仕事が辛いときにいつも聴いてる中島みゆきさんの歌について自分が感じたこと、考えたことをまとめてみようと思います。

今回は個人的には今の時勢にも突き刺さる強いメッセージを持った一曲、「ショウ・タイム」をご紹介します。

 

中島みゆき「ショウ・タイム」について

中島みゆきさんの「ショウ・タイム」は1985年11月7日に発売された13作目のアルバム『miss M.』(ミス・エム)の収録曲です。『miss M.』に収録された曲の好きな歌詞については別記事でまとめているのでそちらも是非ご参照ください。

fuji-ken.hatenablog.com

「ショウ・タイム」の歌詞を考える

そんな「ショウ・タイム」歌詞ですが、歌詞に込められた皮肉やメッセージは35年経った現在2020年にも通ずるものがあります。正直当時の世相は分かりかねる部分があるので、その当時生活していた方々に詳しい話を聞いてみたいのですが、頑張って調べたので「ショウ・タイム」の歌詞を考察。。。というよりも紹介したいと思います。

※言わずもがなですが、以下は個人の感想でありますので、誤った解釈をしているかもしれませんが、ご容赦をいただければと思います。

日本中このごろ静かだと思います
日本中秘かに計画してます
なにも変わりありませんなにも不足ありません
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

生前の日本の出来事は調べることしかできないので、実際にどうだったか私が断定することは難しいのですが、1980年代前半の日本は第二次学生運動あさま山荘事件、ハイジャック事件があった1970年代と比べて落ち着いた時代だったのだと考えられます。

※当時の日本の出来事と写真が以下のサイトにまとまっていたのでこちらを参照しました。文字情報ではなく視覚情報で当時の状況が分かるので勉強になりました。

www.aflo.com

日本中望みをあからさまにして
日本中傷つき挫けた日がある
だから話したがらない だれも話したがらない
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

おそらく1945年の敗戦のことでしょう。さて「なにを」話したがらないのでしょうか。具体的かつ一意な答えはないと思いますが、おそらくは「日本の現実のこと」でしょう。日本の問題とされていることは今も昔も多々あり、解決したものもあれば、未解決のものも多くあります。そういったことを語りあうのは憚られる空気が1980年代当時もあったのでしょうか。

余談ですが、私は去年「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という映画を観ました。この対談があったのが1969年、三島氏の自死が1970年でした。1970年当時はこの映画で描かれているように日本の過去、現在、未来について真剣に考える機会もあったのだと思いますが、そういった時代と比べると、1980年代は日本について考えて、語る機会が少なくなっていったのだと推測してます。

eiga.com

いまやニュースはショウ・タイム
いまや総理はスーパースタ-
カメラ回ればショウ・タイム
通行人も新人スター
Watch & enjoy チャンネル切れば別世界

サビです。ショウというのは舞台を中心とする演劇などの見世物・興行のことです。スターというのは演劇・映画・プロスポーツなどの興行分野におけるスターシステムでおいて、高い人気を持つ人物のことです。スターシステムについてはWikipediaによる定義は以下の通り。

『その興行のスター・システム(英語:star system)は、多くは演劇・映画・プロスポーツなどの興行分野において、高い人気を持つ人物を起用し、その花形的人物がいることを大前提として作品制作やチーム編成、宣伝計画、さらには集客プランの立案などを総合的に行っていく方式の呼称。』

このサビの歌詞は、ニュースは見世物興行であり、総理や通行人の人気で番組が組み立てられているようだけどそれでいいの?という疑問提起のようにみえます。
「人気」とか「面白そう」、つまり視聴率が稼げそうという観点のみでニュース番組を構成し、「第4の権力」としての役割を果たさないのであれば、ニュースは所詮見世物でしかないといえるでしょう。

以降、2番となります。

人が増えすぎて区別がつきません
みんなモンゴリアン区別がつきません
私 特技はハイジャンプ 私 苦手は孤独
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

モンゴリアンというのは黄色人種のことです。ハイジャンプは走り高跳びのことですが何か別の意味があるのでしょうか。区別がつかない没個性モンゴリアンの「私」は虚像の世界への憧れがあるようです。

決まりきった演説 偉いさんの演説
揺れるジェネレイションイライラの季節
息が詰まりそうな地味な暮らしが続く
いいじゃないの 憧れてもすてきなショウ・タイム

決まりきった答弁をする偉いさんって昔からいたんですね、というか偉い人ってみんなそんなものなのか。そんな偉いさんを見た、地味な暮らしをしている「若者」(特定の年齢帯というより、偉いさんとの対比としての若者です。)がイライラを募らせるというのも今と変わらない気がします。そんな「若者」が憧れるのは、「すてきな」ショウ・タイムなのです。
ここまでの歌詞より、ニュースがショウ・タイムになってしまったのは、見世物同様のニュース番組=人気重視の「すてきな」ショウ・タイムを見たい、もしくは出演したいと憧れる「若者」が大勢いるためであるとも考えることができます。
「日本の現実のこと」というのは多くの場合直視したくないものであり、これから目を背け「すてきなショウ・タイム」ばかり見たくなります。しかし、そうしているとますます国のことが分からなくなるという「衆愚」の構造が、中島みゆきの作品にしばしば登場する「悪循環」としてこの歌にも見出されているように思います。

いまやニュースはショウ・タイム
乗っ取り犯もスーパースター
カメラ回ればショウ・タイム
私なりたいスーパースター

ここの乗っ取り犯というのはすてきなショウ・タイムに憧れた「若者」のなれの果てだと考えてます。虚像の世界(⇔現実の世界)に翔んでスーパスターになりたい「若者」はこの乗っ取りという事件を起こすことで世間の注目を集めようとしたのでしょう。

Watch & enjoy チャンネル切れば別世界

虚像の世界であるショウタイムを見ている間は楽しい。しかしテレビを消せば、地味な暮らしという現実が待っているのです。そう考えると、いつまでもチャンネルを切ることができないのです。

余談

この歌が発表された当時はテレビがマスメディアとして非常に大きな影響を持っていました。故にここで歌われるショウ・タイムもおそらくテレビ番組を想定しているのだと思います。

テレビはオワコンと言われる2020年現在でも、1985年に中島みゆきが見つけたショウ・タイムの病理は35年経って解消するどころか、テレビだけでなくSNSYoutubeにも伝播し、益々拡大しているように思います。

Youtubeはまさに「没個性な個人である私がスーパースターになれる場」として年々発展しています。このYoutubeで行われる多くのショウ・タイムは「現実」(国のこと、政治、経済など)を一切含まないという点でテレビのショウ・タイムよりも純度の高い「虚像の世界」を構築していると言えるでしょう。

一方のテレビにおけるショウ・タイムについても、バラエティ色の強い報道番組が増えており、「現実」を十分な信頼性をもって伝える場としてのニュース番組は少ないのが現状のように思います。ショウ・タイムの場がテレビからYoutubeに移った現在、テレビは本来の第4の権力としての役割に回帰するという選択もありな気がします。

スーパースターになりたい個人が、ショウ・タイムを発信できる時代になりましたが、これからショウ・タイムという病はどのように進化、拡大していくのでしょうか。。。

参考

1980年代の日本 - Wikipedia

ハイジャンプとは - コトバンク

 

 

miss M.【リマスター(HQCD)】

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  • アーティスト:中島みゆき
  • 発売日: 2018/04/04
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ヘイリー・ベネット主演「スワロウ(原題:Swallow)」について"感察"する!!

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毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが人生の唯一の生き甲斐である映画を観て”感じた”ことを”考察”、つまり”感察”したいと思います。要するにただの戯記事です。

今回は2021年1月1日(金)公開の「スワロウ(原題:Swallow)」についてです。

作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。

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中島みゆきのアルバム「miss M.」の好きな歌詞5選

中島みゆきのアルバム「miss M.」の好きな歌詞5選

 

毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが仕事が辛いときにいつも聴いてる中島みゆきさんの歌の歌詞をひたすら紹介したいと思います。笑

今回は個人的に最も好きなアルバムの一つ「miss M.」の歌をご紹介します。

 

アルバム「miss M.」について

『miss M.』(ミス・エム)は、1985年11月7日に発表された中島みゆきの13作目のオリジナルアルバムである。個人的にはこのアルバム前後のみゆきさんの歌声が好きなんですよね。今もそうですが歌声や歌い方が多様で本当に同じ歌手??と思うような幅広さが魅力です。そんなアルバム「miss M.」に収録されている歌から個人的に好きな歌詞を5つ紹介したいと思います。

 

1.『それ以上言わないで』 

自分でなんか言えないことを 貴方自分で知ってたくせに
なにか言わなきゃならないような しずかな海になぜ来たの
少し私が寒そうにすると 貴方いつしか無意識のうち
上着を脱いではおってくれる よけいさみしい温もりね

男女の別れを描いた歌の歌い出し。別れる二人なのに全く険悪な様子はなく貴方(男)は私(女)を気遣う姿も。男の誠実さと女の気丈さがひりひりと心に沁みる一曲。

2.『月の赤ん坊』

閉ざしておいた筈の窓をすり抜け
子守歌が流れてる
裸足のままで蒼い窓辺に立てば
折れそうな三日月
だれが歌っているの だれが叫んでいるの
なんでもないよと答えた日からひとりになったの
笑顔のままで蒼ざめきった月は
今にも折れそう

絵画のような表現。青白い夜、まるでゴッホの星月夜のような。。。
笑顔のままで蒼ざめるという歌詞にはメランコリーを感じます。
曲の出だしのピアノのフレーズも印象的で好きです。

3.『忘れてはいけない』

許さないと叫ぶ野良犬の声を
踏み砕いて走る車輪の音がする

戦争や暴動かもしれませんし、強制立ち退きのようなものかもしれません。何があったのか具体的には明示されていませんが、この数フレーズで非常に強い憎しみの感情を想起させます。みゆきさんの曲は歌い出しの歌詞が本当に上手いと感じます。

4.『ノスタルジア

傷ついてもつまずいても過ぎ去れば物語
人は誰も過ぎた日々に弁護士をつけたがる
裁かないでね叱らないでね思い出は物語
私どんな人のことも天使だったと言うわ

人は傷ついたことや挫折したことにあれこれ理由を付けて失敗もよい経験だったと正当化しようとしてしまいます。同様に過去に合ったみじめな恋愛も美化されてしまうのです。そういった思い出を弁護士のように検証することをきっと誰も望まないでしょう。
。。。というヒトの業がポップな曲調で、30秒にも満たないフレーズで歌われています!

5.『肩に降る雨』

肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた
肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた

ハッとさせられる歌詞です。肩に降る雨が「冷たい」と感じなくなってしまっている自分に気づかされます。生きているうちに感受性は鈍り、そうしていくうちに何も感じなくなっていること、それはもはやヒトとして死んでいる状態になっているのではないかと考えさせられます。

余談

この「miss M.」には10曲収録されているのですが、その中で個人的に好きな曲を5曲紹介しました。。。。。実はもう一つ好きな曲があるのですがそれは個別に考察したいと考えております。35年前の曲にも関わらず今の世相にとても刺さる曲なんですよね。。。こうご期待!

参照

miss M. (中島みゆきのアルバム) - Wikipedia

 

miss M.【リマスター(HQCD)】

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  • アーティスト:中島みゆき
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クレベール・メンドンサ・フィリオ監督「バクラウ 地図から消された村(原題:Bacurau)」について"感察"する!!

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毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが人生の唯一の生き甲斐である映画を観て”感じた”ことを”考察”、つまり”感察”したいと思います。要するにただの戯記事です。

今回は2020年11月28日(土)公開の「バクラウ 地図から消された村(原題:Bacurau)」についてです。

※作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。

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DCエクステンデッド・ユニバース作品「ワンダーウーマン 1984(Wonder Woman 1984)」について"感察"する!!

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毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが人生の唯一の生き甲斐である映画を観て”感じた”ことを”考察”、つまり”感察”したいと思います。要するにただの戯記事です。

今回は2020年12月18日(金)公開の「ワンダーウーマン 1984(Wonder Woman 1984)」についてです。

※作品のネタバレを含みます。また個人の感想であり、事実とは異なる記載が含まれることがありますのでご容赦ください。

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中島みゆき「傾斜」の歌詞について考える

中島みゆき「傾斜」の歌詞について考える

~老婆が坂を登り続けることができるワケ~

 

毎度ご訪問ありがとうございます。ふじけんです。

アラサーサラリーマンの私ですが仕事が辛いときにいつも聴いてる中島みゆきさんの歌について自分が感じたこと、考えたことをまとめてみようと思います。

今回は個人的に頭を悩ませた曲の一つ「傾斜」をご紹介します。

 

中島みゆき「傾斜」について

中島みゆきさんの「傾斜」は1982年3月21日に発売された中島みゆきの9作目のアルバム『寒水魚』の収録曲です。2004年11月17日に発表された、32作目のオリジナルアルバム『いまのきもち』にも収録されています。前回の「あわせ鏡」も『いまのきもち』に再録されてますね!

fuji-ken.hatenablog.com

 

タイトルの「寒水魚」は熱帯魚をもじった造語だそうです。熱帯魚はあったかい海に住んでいるカラフルな魚ですが、寒水魚は冷たい海に住んでいる地味な魚ですかね。。。
以下、北極の魚です、ご参考まで

oceanexplorer.noaa.gov

「傾斜」の歌詞を考える

そんな「傾斜」歌詞ですが、どうやら高校の国語の教科書に掲載されたようです。
ただ、どの出版社のいつの教科書か分からないため、真偽不明です。

もし本当に国語の教科書に記載されていたとしたら、当時の学生はテストで作者のきもちを考えさせられたり、感想文とか書かされたりして、点数を付けられたり、成績を付けられたりしたのでしょうか。。。

と、いうことで、私もこの「傾斜」を頑張って読んだので以下綴っていきたいと思います。教科書をお持ちの方は採点をお願い致します!

※言わずもがなですが、以下は個人の感想でありますので、誤った解釈をしているかもしれませんが、ご容赦をいただければと思います。

傾斜10度の坂道を
腰の曲がった老婆が 少しずつのぼってゆく
紫色の風呂敷包みは
また少しまた少し 重くなったようだ
彼女の自慢だった足は
うすい草履の上で 横すべり横すべり
のぼれども のぼれども
どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ

老婆、少しずつ登る、重くなった、うすい草履、横すべり、どこへも着きはしない

これらの言葉を聞くと老婆はゴールもなく、重い荷物を背負い、うすい草履で傾斜を登らされているという「絶望的な状況」に置かれているように思えます。

冬から春へと坂を降り 夏から夜へと坂を降り
愛から冬へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

この歌詞に出てくる坂を図にすると以下の通りになります。

f:id:Fuji_ken:20201212211227p:plain

春と夏のつながりは明示されてませんが、四季の移ろいと同じと仮定しました。
坂を降りて、登ろうとすると傾斜が険しくなるとあるので、このように麓に向けて急になる坂と考えられます。この坂を登るには「愛」を受けて、あるいは愛を動機に、人づたいに登る必要があります。

f:id:Fuji_ken:20201212212613p:plain

坂2

さて、ここの歌詞、冬、春、夏と続いて次が秋ではなく夜なのはなぜでしょうか。
私はここでいう夜は「四季がなく、停滞した状態」であると考えます。
例えば、朝や昼であれば「雪が積もった」、「桜が咲いた」、「太陽がまぶしい」など四季を移ろいを感じることができますが、夜で真っ暗だとそういった変化は分かりません。ただ暗いだけなのです。
もちろん現実には明かりがあり、気温もありますから夜でも四季の移ろいはわかりますが。。。あくまで解釈ということで。

としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか

ここでサビに入ります。このサビの歌詞についてはネット上でも感想や解釈が多いですね。中島みゆき作品の数少ないCall and Responseだからでしょうか(笑)


みゆきさん「としをとる(忘れっぽい)のはステキなことです そうじゃないですか」(Call)

聴衆1「そうだ!」(Response)

聴衆2「ちがう!」(Response)

聴衆1&聴衆2「えっ。。。」

自分が国語の先生ならここの賛否とその理由を説明させますね(笑)
まずサビの後半、悲しい記憶の数が増えると「荷が重く」なります。
そして背負いきれなくなる、つまり飽和の量より増えてしまったら背負わず捨てる、つまり忘れるしかないのです。

忘れっぽいというのはこの悲しい記憶の数は飽和の量のぎりぎりの状態であること、それはとしをとるにつれどんどん増えていった状態と考えられます。こう考えるとみゆきさんのCallには「No!」と言いたくなりますね。さて2番の歌詞に進みます。

息が苦しいのは きっと彼女が
出がけにしめた帯がきつすぎたのだろう
息子が彼女に邪険にするのは
きっと彼女が女房に似ているからだろう
あの子にどれだけやさしくしたかと
思い出すほど あの子は他人でもない
みせつけがましいと言われて
抜きすぎた白髪の残りはあと少し

この歌詞の「~だろう」と考えているのは誰か明示はされておりませんが、おそらく冒頭の歌詞の老婆の夫だと私は考えてます。以下老翁とします。
この仮定を基に歌詞の内容を図にすると以下の通りと考えられます。

f:id:Fuji_ken:20201212232001p:plain

家系図

「あの子」というのが孫のことか、=彼女のことか悩んだのですが、「彼女」と使い分けられていることから彼女とは別の主体と考えました。
さて歌詞を見る限り、この歌詞に登場する人物全員が「完全に幸福」な状態とは言えないように思います。「嫁」である彼女が締めた帯はきつい、息子は「妻」である彼女を邪険に扱うなど、小言はありそうです。
しかし、この老翁は「孫」であるあの子に「他人」ではないと思うほどには優しく接しています。この老翁は「老人」であると同時に彼女にとっての「義父」であり、あの子にとっての「祖父」であり、彼らは「家族」なのです。

そんな「家族」のいる老翁の白髪、つまり「としをとっていることを見せつけるもの」はあと少しでなくなる、つまり髪が抜けるほどにとしをとったことが分かります。
そして老翁の「女房」である老婆も同じように「妻」として、「母」として、そして「祖母」として、としをとったことが分かります。

誰かの娘が坂を降り 誰かの女が坂を降り
愛から夜へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

ここの歌詞は1番の歌詞と対応しており、文章を補うならば以下の通りになるでしょう。

誰かの娘が冬から春へと坂を降り 誰かの女が夏から夜へと坂を降り
愛から夜へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

 1番では愛から冬へと人づたいに登れていたものの、この女は愛から夜にしか登れておりません。なぜでしょうか?

f:id:Fuji_ken:20201213020450p:plain

坂3

ここで坂を降りているのは「誰かの娘」、「誰かの女」であり、特定の誰かと、特別な関係を有しておりません。言い換えるとこの娘、女は誰かとの家族関係を持たない女性であると考えられます。

例えば、「ふじけん(という特定の誰かの)」の「娘」であればそれと同時に「ふじけん(という特定の誰かの)」の「子供(という特別な関係)」もしくは「ふじけん(という特定の誰かの)」の「嫁(という特別な関係)」となりますし、同様に「ふじけんの女」であればそれと同時に「ふじけんの妻」になります。家族がいる女性は一人の女であると同時に「嫁」、「妻」となります。
一方、この歌詞に出てくる女性はそういった関係を持たない「誰かの」女なのです。この誰かの女は愛を受けて人づたいに坂を登ることはできず、夜にしがみつくしかできないのです。

このあとサビが再出し、そのあとに1番の歌詞が再出します。
さて、ここまでの歌詞を踏まえて、冒頭の老婆をもう一度見てみましょう。
この老婆は老翁の女房であり、息子の母であり、あの子の祖母であります。

傾斜10度の坂道を
腰の曲がった老婆が 少しずつのぼってゆく

まず、この傾斜10度というのはそこまで急ではありません。
この坂は麓に掛けて急になる坂なのでこの老婆は山頂に近いことが分かります。
老婆は少しずつ、少しずつ登ってきたのです。

紫色の風呂敷包みは
また少しまた少し 重くなったようだ

「紫色の風呂敷包み」という単語でGoogle検索をしてみてください。
高級そうな画像、贈り物の画像が出てきます。つまりこの老婆の背負ってる風呂敷包みには「貴いもの」、「贈られたもの」が詰まっていると考えられます。これは物理的な「物」というよりは「思い出」のようなものかもしれません。
老婆は風呂敷包みの中身を捨てずに背負い、そしてその風呂敷包みはまた少し重くなったのです。

彼女の自慢だった足は
うすい草履の上で 横すべり横すべり

 草履が薄くなっているのは、紫色の風呂敷包みを背負って、彼女がずっと坂を登ってきたから。彼女は坂を降りず、その自慢の足で、坂を登ってきたのです。少しずつ重くなる紫色の風呂敷包みを背負い、老いてなお老婆は坂を降りず、少しずつ、少しずつ登っているのです。

のぼれども のぼれども
どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ

どこへも着きはしないことが分かっていながら、それでも老婆は坂を降りず、坂を登り続けることができるのは老婆が「妻」であり、「母」であり、「祖母」であり、夫から息子から孫から愛を受け、また愛を与える関係にあるからだと考えます。
家族関係というのは須らく幸福な状態とは言えず、ときに悲しい記憶も増えるでしょうが、それでも紫の風呂敷に包みたくなるような思い出も増えていくのです。

としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか

さて、この歌詞ですが、個人的には以下の通りResponseします。

「としをとるのはステキなことです そうじゃないですか?

→独りならばNo,独りじゃないならYes

「忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか?」

→独りならばYes,独りじゃないならNo

冬から春、夏へと四季の移ろいに身を任せ、夜に向かって坂を降り続けるならば、としをとるのはステキではないですし、悲しい記憶の数ばかり増えていくようなら何も背負わず忘れっぽい方がステキです。
ただ、あなたが独りではないならば、としを取るほど紫の風呂敷包みは増えていきますし、そういった思い出は忘れずにいられる方がステキなことだと私は思います。

そして、多くの人は実は独りではないのですが、そのことをついつい忘れてしまうのです。

余談

この歌詞、個人的には「ファイト!」と似たようなメッセージがあると思いました。
「ファイト!」には「水の流れに身を任せ、流れ落ちてしまうのが楽なのにね」という歌詞があります。これをこの傾斜の舞台に当てはめるならば、「四季の移ろいに身を任せ、転げ落ちてしまうのが楽なのにね」ということができるでしょう。

しかし多くの人はそれでも川を登り、坂を登るのです。

相違点とするならば、「ファイト!」が自身の内に秘めたる希望、野心のようなもので川を登っていたのに対し、この「傾斜」では人づたいに坂を登っていることでしょうか。どちらが正というよりも、どちらも必要なものだと私は思います。坂を登るのには、自慢の足(坂を登るための覚悟)も大切ですが、ときに手を差し伸べてくれる人も同じように大切でしょう。

妄想になりますが、この坂の名は「あぶな坂」という名前ではないかと考えています。
そう考えるとこの「傾斜」に登場する老婆の前日譚が語られていることになるのですが、その前提で近々記事を綴ってみようと考えています。

参考

寒水魚 - Wikipedia

 

他記事へのリンク

よかったら是非。

fuji-ken.hatenablog.com

 

 

寒水魚【リマスター(HQCD)】

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  • 発売日: 2018/04/04
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アラサーサラリーマンが経済学を勉強する ~ネットワーク・メディアの経済学その1~

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IT業界に身を置きながら業務では全くプログラミングをしない似非IT人材の私が『ビジネス』についての理解を深めるべく、市販の書籍などなどを用いて勉強をする記事です。シリーズとして不定期に更新していく予定ですので、温かく見守っていただければと思います。

 

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